JIBT の歴史

JIBT 40周年記念大会にて (2018)。魚は標識を付けて再放流しましたのでレプリカが吊されています

日本におけるビッグゲーム・フィッシングの夜明けが伊豆半島で始まったのは、首都圏からの距離の近さと、遊漁船を兼業する漁師の存在が大きく関係しています。永田一脩(ながた・かずなが)さんが1960年に書いた「白浜屋が大カジキをバラすこと」という小品はその頃の雰囲気をよく伝えていますが、当時は「大もの釣り」というカテゴリーが確実に存在し、イシダイ、イシガキダイといった磯魚のさらなる延長線上にカジキ釣りが捉えられていました。

そして1970年代初頭、JGFA前会長である岡田順三さんは南伊豆の船宿に泊まってカジキ釣りを始め、中盤には一世を風靡したテレビ番組 「11PM 」で服部善郎さんが各地でカジキ釣りを楽しむ姿が放送されました。そして、初代JGFA会長である大西英徳さんは、ボートオーナーとして下田の便利さと、付近の海域の豊かさに注目をし始めていました。日本のカジキ釣りにおけるキーパーソンといえる彼ら2人が実際に知り合った場所も、ハワイのカイルアコナで開催される伝統のカジキ釣り大会 HIBT (Hawaiian International Billfish Tournament) 、1978年のことです。

HIBT を釣る岡田順三さん

大西さん、岡田さんと、以前から参戦していたもう1人の日本人、西川龍三さんのところに届いたのは、HIBTの元締であるピーター・フィジアンさんからの手紙。それには、日本にもIGFA傘下の組織と、独自のフラッグシップ・トーナメントを作ってはどうだろうというアドバイスが含まれていました。本場のビルフィッシュ・トーナメントで体験してきた熱をそのままに、この3人が中心となって翌年に立ち上がったのが、三宅島の「東京トローリングフェスティバル (TTF) 」であり、1980年に創立されたJGFA。東京トローリングフェスティバルは、翌年には「東京ビルフィッシュ・トーナメント (TBF)」と名前を改め、HIBTの影響をさらに色濃く打ち出すようになります。開催地にあるボートをチャーターするという方針も彼の地そのままなので、参加艇25のうち、じつに20艇が三宅島を初めとする近隣の漁船。これには、磯釣りなどに現地の渡船をよく使っていた岡田さんたちの人脈が大きくプラスに働きまいた。地元との絆と経済貢献を大事にしていこうというこの姿勢は、開催のベースが下田に移された1985年以降もずっと守り抜かれています。

実は、インターナショナル・ゲームフィッシュ協会 (IGFA) と日本の釣り人との関係は、1980年JGFA創立のはるか以前に遡ります。アメリカ自然史博物館が強力な支援を提供し、1939年に立ち上がったのが IGFA ですが、この立ち上げに貢献したのがマイケル・ラーナーさん。ニューヨーク市で婦人服のチェーン店を創業し巨万の富をなした彼は、次なる情熱としてゲームフィッシュの研究に取り組んでいました。彼は私財を投じて、アメリカ自然史博物館の外部機関となる「ラーナー海洋研究所 The Lerner Marine Laboratory」をバハマのビミニに創設、魚類の研究を始めます。彼は黒潮を泳ぐカジキにも興味を持ち、日本も訪問。終戦から数年たった頃、日本磯釣倶楽部、磯釣同和会といった名士・文化人たちのクラブが、東大の檜山義夫教授の手助けで IGFAと連絡を取っていたのですが、そのツテで当時 IGFAプレジデントであったラーナー氏が連絡を取ってきました。永田一脩さんが書いた「巨魚の会消滅記」(1960) には、その来日に短く触れた箇所がありますが、もともとラーナー氏はプライベートボートを回航して日本でカジキを釣ろうという計画を持っていたらしいのです。諸般の事情で釣りが不可能となっても、彼は奥様のヘレンさんを伴って1954年に来日、ほぼ1ヶ月を過ごしました。ラーナー氏および IGFAの影響で、日本国内にいる大物釣り師たちの中にも「トローリング研究会」ができ、最初は小さかったそのうねりが、メディアの力添えもあって1970年代に開花した、ということになるのでしょう。

ラーナー夫妻、鎌倉にて

原型となったHIBTと同じく、日本のJIBT も、優勝してもらえるのは小さなトロフィーと栄誉、友情とちょっとした副賞だけです。世界ではここ20年ほど、巨額の現金が優勝賞金として用意される、ギャンブル的トーナメントも人気となっていますが、それらとは一線を画すジェントルメンズ・トーナメントなのです。大トーナメントは経済面でも大きな影響力を持つが、それは地元のためになればよい、というスタンスは、ホストタウンである下田の文化とも親和性がとても高いと思われます。

海は、タテとヨコの糸で私たちをつなぎます。米国やロシアの軍艦がやって来るずっと昔から、下田は外の世界に向けて扉を開き続けてきました。その奇跡のような下地の上に、高い志を掲げるいまのJIBTがあり、同好の仲間たちとの国境を越えた交流があるのです。