国際大会としての歩み

立ち上げのキーパーソン

JIBT の国際性は、ジャパンゲームフィッシュ協会の初代会長、大西英徳氏の足跡に大きく影響されています。大西氏は、慶応大学を卒業後、米ミネソタ大学の大学院で修士号を取得し帰国。ほどなくしてカジキ類のビッグゲーム・アングリングにものめり込み、たどりついたハワイで数多くのキーパーソンと出会います。その中には、後にジャパンゲームフィッシュ協会を立ち上げる中心的な存在となる西川龍三氏、現名誉会長である岡田順三氏、すでにハワイに在住してトローリングに打ち込んでいた橘繁行氏、そして HIBT の駆動力であるピーター・フィジアン氏がいました。彼らの支援と努力により、すべての始まりとなった第一回TOKYO トローリングフェスティバルが三宅島をベースとして開かれたのは1979年のことです。

ハワイHIBTの創設者ピーター・フィジアンさん。第10回のJIBT記念大会を祝して来日した時の姿

日本初の「国際」カジキ釣り大会

それからわずか3年後の1982年には、アメリカチームが参戦しています。米国大使館のアイバーソン西太平洋漁業官をキャプテンに、ホルスタイン海軍中佐、シーグレイ海軍少佐から構成されるチームです。海外の主要トーナメントと同じIGFAルールに則って開催され、海外チームが参加したという2つの意味で、まさに日本初の国際カジキ釣り大会です。この大会で釣り上げられたクロカジキから、アイバーソン漁業官と筑波大学の研究員が採取した内臓や筋肉サンプルは、PGF(太平洋魚族保護基金)に届けられました。

左端は大西英徳氏。米国大使館と軍関係者から構成されるアメリカチームと、自艇ミスセーバー上で

海外チームの参戦と栄冠

翌年、1983年7月22日~24日に予定されていた第5回 東京ビルフィッシュトーナメント(TBT)には、ハワイ・ビッグゲームフィッシングクラブ、アメリカンカスタム・フィッシングクラブ、ニューヨーク・モアリングフィッシングクラブ、1982年度HIBT優勝のマーシャルアイランド・ビルフィッシュクラブという海外4チームが来日しており、彼らを乗せた飛行機は悪天候の中、やっとのことで三宅島に着陸しました。しかし海は大会前日からシケが続き、最終的には大会中止の判断。大西会長は愛艇〈ミスセーバー〉で三宅島の阿古港に入港して海外チームを慰問し、三宅島の山本村長もミス三宅島と島の和太鼓隊を引き連れて来場。そこに外国チームも加わり、大いに盛り上がった懇親パーティーが行われました。そして1984年7月26日~27日に開催された第6回 東京ビルフィッシュトーナメント(TBT)には、香港からマンダリン・スポーツフィッシングクラブが初参戦。キャセイ・パシフィック航空のパイロットとして世界を駆け巡っていたノエル・ジョーンズ氏が139.9kgのクロカジキを釣り上げ優勝をさらいました。

第7回大会にて。香港のマンダリン・スポーツフィッシングクラブが二度目の優勝!

舞台を下田に移して躍進

1985年には、開催地を三宅島から伊豆下田に移し、大会名も「ジャパン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメント (JIBT)」へと一新。交通の便の良さ、宿泊施設の数、そしてビッグゲーム・トローリングの注目度から参加者は大きく増え、48チーム145人のビルフィッシャーが競い合う大会となりました。そして現在は、各地から100チーム500人を超えるアングラーが集う、日本のフラッグシップ・トーナメントに成長し、その名前は世界が知るところとなっています。